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『トンボの眼』バックナンバー

No.15 2009年4・5・6月号
2008年度「魏志」倭人伝の道 第5回(最終回)

「長安・洛陽から山東半島〜帯方郡へ」に参加して

石崎勝義  元朝日新聞記者

 「トンボの眼」企画の日韓中3か国に渡る異色の遺跡巡りツアー「『魏志』倭人伝の道」も第5回、いよいよ最終回は中国大陸である。邪馬台国の卑弥呼の使いが、また漢の皇帝の使いが都・洛陽から山東半島を経て海路、朝鮮半島へ。そして対馬・壱岐を経て倭の国へ。そんな道を辿り、今回は帯方郡比定地の韓国・ソウルまで11日間の旅だ。

 08年9月23日、空路で中国に入り西安(長安)から列車で、まず最大の目的地の洛陽。さらに鄭州から寝台列車で済南を経て山東半島へ。蓬莱、威海から栄成、青島港へ。大型フェリー定期船で黄海を渡り韓国・仁川港へ。朝鮮半島に上陸、ソウルに向かった。通常の観光コースでは味わえぬルートであった。

撮影/石崎勝義

◆ 西安(長安)の挟西博物館、大雁塔、漢武帝茂陵、大明宮遺跡

雨の中でも観光客で賑わう洛陽郊外の「龍門石窟」

 長安と呼ばれた古都西安は紀元前10世紀から紀元後10世紀まで2000年間、秦、漢、隋、唐など中国歴代王朝の都が置かれた。平城京や平安京のモデルであり、遣隋使や遣唐使が派遣された日本とのつながりの深さはいうまでもない。シルクロードの出発点でもあった。今も人口800万人を上回る中国西部の大拠点都市でもある。秦の始皇帝陵や兵馬俑、玄宗皇帝と楊貴妃の墓など、中国観光で必ず訪れる場所も数多い。仏典を求めてシルクロードからインドまで行った「西遊記」のモデル、三蔵玄奘の翻訳したお経を収めた大雁塔に登ったが、ここでは紹介するまでもなかろう。

 邪馬台国とのつながりでいえば前漢の史書「漢書」地理誌に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時を持って来たり、献見するという」と記され、倭の使節が楽浪郡を訪れたという出来事が、初めて中国の史書に記録されることになる。そして楽浪郡と交流があったことは楽浪系土器などの漢式土器が北部九州から出土していることからも裏付けられる。そこで、西安郊外の咸陽市にある漢武帝(BC140〜87)の墓である茂陵を訪れた。武帝は5代皇帝で、辺境経略のため郡を設置、朝鮮半島方面には四郡(楽浪、帯方、玄菟、遼東)を設置した。北方や西域の匈奴征伐のヒーローで知られる霍去病(かっきょへい)将軍の墓も見学した。また唐帝国時代の長安城の大明宮の遺跡も歩いた。

◆ 古都・洛陽の龍門石窟、古墓博物館、後漢光武帝劉秀墓、漢魏洛陽故城、白馬寺

雨の中、傘をさしながら「漢魏洛陽故城」の土塁跡を見学する一行

 ハイライトはやはり「魏志」倭人伝の魏の都でもあった古都・洛陽(人口639万人)観光である。紀元前11世紀、周世王が洛水の北に「洛邑」を建設してから、東周、後漢、魏、西晋、北魏、隋、唐、御梁、後唐の9つの王朝(九朝古都という)が都を置いた。中原地帯の王朝興亡の舞台である。

 なかでも世界遺産の「龍門石窟」は威容を誇る。敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟と並ぶ中国3大石窟のひとつ。北魏の孝文帝の494年ごろから造営。唐代までの400年間も続いた。山に彫られた洞は数千に成り、蜂の巣のようだ。万仏洞は数センチの小仏が1万5000体も掘られているという。この日は国慶節も近く、中国各地から訪れた観光客がひっきりなし。最大の廬舎那仏はヘレニズムの影響をまったく感じさせない中国的な特徴で美しい強い意志を示し、唐の有名な女帝則天武后の顔に似せたといわれる。

 五つの陵墓が並んでいる。その中にある古墓博物館もユニークだった。また日本との関係では、江戸時代に北九州の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印授受(AD57年)で知られる後漢光武帝。後漢書「倭伝」に記述がある。その墓といわれる劉秀墳も見学した。

漢の武帝陵・茂陵をバックに説明する西谷先生

 翌日もあいにく雨。「漢魏洛陽故城」の見学は泥んこ道だった。村のあちこちでは収穫期のトウモロコシが所狭しと並べられていた。バスを降りて歩くこと30分余、西谷先生の先導でツアー一行13人は続いた。畑の中にわずかに土塁跡が残っているだけだが……。

 「魏志」倭人伝は記している。239年6月、邪馬台国の卑弥呼が難升米らを魏の支配する帯方郡に遣わした。使節は都の洛陽に到り、男女10人の奴隷と布を献じた。12月、明帝から詔書が下り卑弥呼に「親魏倭王」の称号が与えられ、翌年金印と紫の綬(組み紐)、銅鏡100枚などを与えられた。ついで邪馬台国は243年にも使いを送り、一方魏からも使節が渡来した。曹魏正始8年(247年)、卑弥呼が載斯烏越(さいし)を帯方郡に派遣、対抗する卑弥弓呼の狗奴国との内乱を報告した。「倭国大乱」のころである。これに対し、帯方郡の太守は国境守備の属官張政を倭に使わした。張政は魏の少帝の勅書と黄色の軍旗を邪馬台国大夫難升米に与え、さらに檄文を発して卑弥呼を支援する旨を伝えた。翌年ごろ卑弥呼は死んだ。

 こうした倭との深い交流の舞台が洛陽なのである。

 洛陽観光の目玉のひとつ「白馬寺」のことも簡単に触れる。伝説によると、天竺から2人の僧が白馬に経文を積んでこの地にやってきて仏教を伝えたという。山門の前には白馬の像が建ち、門をくぐると天竺の僧の墓がある。寺の東側が「漢魏洛陽故城」だ。

◆ 鄭州の商代遺跡、済南の東魏・四門石塔、城子崖遺跡

展望のよい「蓬莱閣」で楽しむ国慶節休日の観光客たち

 洛陽からは列車で河南省の省都鄭州へ。黄河文明の発祥地であり、紀元前15世紀ごろに興った中国古代王朝、商王国の「商代遺跡」や「河南省博物院」を見学。中国最古の貴重な出土品が多数展示されていた。

 そして国慶節の休暇で帰省客や観光客でごった返す鄭州駅から寝台列車で山東半島の入り口済南へ。ここは春秋戦国七国時代に栄えた強国斉国の都である。多くの泉が湧き出て、「泉の城」と呼ばれている。ここではすでに「トンボの眼」の前号14号で、同行の東映映画監督・大西竹次郎氏がユニークな視点で報告されているのでお目通し願いたい。「中国山東省のマカラとカーラ」。神通寺の四門塔で発見されたマカラはインドや東南アジアの宗教遺跡の装飾に見られる想像の怪魚で、鼻をワニ、あるいはゾウに似せた造詣例が多いそうだ。

慈覚大師円仁ゆかりの赤山法華院の登り口

 城址崖遺跡は新石器時代の龍山文化の代表的な遺跡。1928年に発見されさらに90年代に調査が進み、黒陶、灰陶、紅陶やウシ・シカの肩甲骨を用いたト骨も多数出土している。付属の遺跡博物館に展示されていた。同行の西谷先生も初めての訪問という。多数の麻崖仏で知られる千仏山興国禅寺も見学した。

◆ 山東半島の蓬莱閣、登州博物館、栄成の赤山法華院、青島港へ

 今度のツアーで私は山東半島を初めて見た。広い高速道が一直線で伸び、周辺は中国でも有数の豊かな農村地帯である。洛陽周辺のトウモロコシを軒先や寺の境内に無造作に筵の上に広げて乾燥させていた貧しい農家に比べ、屋根のかわらも赤茶けて美しい風景だった。

ドック式の韓国仁川港に入る中韓間定期フェリー

 渤海を望む山東半島の避暑地、煙台市にある蓬莱閣や、登州博物館、沈船からの引き揚げた遺物を展示した登州古船博物館も見学した。しかしここでのハイライトは半島最東端の栄成市にある「赤山法華院」であろう。長い階段をあえぎながら登った。1988年に日本の調査団(千田稔団長)が詳しく調査した。839年、遣唐使に同行した比叡山天台宗の慈覚大師円仁が遭難して石島に流れ着き、やがて入山修行して「入唐求法巡礼行記」を書いたことで知られる。この寺は新羅人の有力商人の張保皐が船団を率いて交易、富を築いて寄進して作ったという。この調査は日韓中三か国の交流のシンボルでもあった。今も京都修学院には円仁ゆかりの赤山禅院がある。

帯方郡比定地とされる風納土城発掘現場

◆ ソウル近郊の帯方郡比定地の風納土城、百済都城、夢村土城、石村洞古墳群

 この項は「トンボの眼」14号で触れたので省略する。

※編集室からのお願い

 2008年度の旅行では西安訪問、青島〜仁川をフェリーで移動した。現在募集中の、本年2009年度の同旅行(11月17日(火)〜26日(木)=10日間)ではそれらをカットしている。無論、これに変わる魅力を盛り込んだ上での一部旅程変更です。両コースの旅程の違いを比較いただいた上、是非、本年も多くの方々にご参加いただけることを願っております。(トンボの眼 編集室 佐々木)。


『魏志倭人伝の道』第5回 「魏・洛陽から帯方郡へ」

期間:2009年11月17日(火)〜26日(木)=10日間
同行解説:西谷正先生(九州歴史資料館館長・九州大学名誉教授)
旅行費:成田発着 未定 関空発着 未定
食事:朝9・昼8・夕9回付
定員:30名
最少催行:15名